昭和42年1月22日朝の御理解



 (途中から)を頂かれましたが、私は、新陰流を頂いたような気がいたします。神愛を神愛たらしめて行くには、受ける心によるということ。神愛を神愛と言うて、その受ける心、受け向かう一つにあっていいと思う。これが最近の、まあ信心を色々書いてございます。ね。その方からでございました。
 まだ先生はご存命だと、まだ肉声に触れらるのだと、手にも足にも、その命に触れ、先生の命に触れて行けれるということがです、ほんとに道を求めてる人達に大声をして叫びたい、というふうに書いてきておられますです。私もほんとにそれを思うです。ね。ですから、ほんとにあの、ほんとに死なれてから、例えばテープが残っておるとか、書いた物が残っておるとかじゃなくてです、実際、今頂いておかなければと言ったような、話し合い、話を昨日ねがけにでした。そんな話から、あの、そうした事でございますけれども、果たしてほんとにあの、そういうような意気込みで頂こうとしておる人が何人おるだろうかと思うのですね。そこを頂いてまいりませんと、一番初めに申しましたようなその、どこに繋がれるものがあるか、どこにスイッチがあると言うのは分からんのです。
 今日私その事思うておりましたら、その、(つなきとかしわら?)がですね、なかなか表面に出ていないのですね。やっぱり削った上に削るとそこに、そこんところにそのスイッチがあった。そこに(繋ぎ止め?)があったと言ったような、感じを頂くんです。これは、今言う削るようなというかね、本気で自分を改まって行かなければ、「先生、どこば私はどう改まったらおかげ頂くでしょうか」なんて言う人がありますけれども、それでは教えられるはずがなかです。自分自身が、やっぱ削って削って、そこから発見しなければダメなんだ。自分というものは。
 今のままでは、例えば、10年信心の稽古さして頂いて、設備はできたんです。ね。各部屋なら各部屋に、ちょっとこう電灯なら電灯するならすぐにも設備ができておるようなものなんだけれども、そこが、やはり削らなければ分からないということ。ね。そこに、私は、信心が本気で、本気で私は、道を求めると言うか、本気で、いわゆる今朝方の御理解を頂きよりますとですね、もうなんともかんとも、いいえ私自身がそんな気がするんですよ。うん。
 ほんとに、おかげを頂くというのは、ここんところが欠けておるなということ。なるほどお徳を頂きたいと言うけど、はあ、こういうふうな大事な、ここんところが欠けておるな、と言う、今日は御理解だそうですね。朝の御理解は。ね。なるほどこれではおかげが頂けなかったはずだなということなのです。ね。ですから、それでは、いうならばほんとに繋がる事ができんということなんですよね。
 先程、松本さんが、来ておりますが、始め椛目に、始めの間、椛目にお引き寄せを頂いておる間はですね、今まで聞き慣れた御理解が、じゃないもんですから、どこをどう頂いていいものか一つも分からなかった。何とはなしに雰囲気から有り難いものは感ずるけれど、さあもう家に帰って、それを子供達にでも話してやる事もできなかった。
 段々そこを辛抱さして頂きよりましたら、もう一言一言に例えしなければおられない、ということになってまいりました。そして始めの間は、それを、二人の娘さんがおられます。二人の娘さん達に、帰って「今日はどげな御理解じゃったの」と言うて言うから、話すとですね、そこに非常に反発しよった。そして、それをまた、説明して分からせるまでがたいへん時間がかかりよったですけれども、最近、この御理解を頂いて、もう今日の御理解の頂き所はここじゃった、と言うのを、もう、いわゆる大意をですね、書き留めておられる。
 始めからずっと書いておられるが、もう前の、例えば、1年前なら1年前にその御理解を書いておるのと、現在書いておるというのは、全然頂きどころが違うということですね。なんか1年前にはやはり、枝葉のところ頂いておったような気がするけれど、現在ではなんとそこの、いよいよ、いわゆる中心に自分の信心が触れて行きよる。頂き方が変ってきた。
 ですから、そこのところを伝えると、娘達でも、もうそこんところを楽しみに聞くようになり、そこんところを抵抗なしに、「はあ、そうじゃろう、そこがそうじゃろうな」と言うてから、まあ聞くようになったと言うて、先程お届けをしておられます。ね。皆さんが例えば御理解をほんとに、私は椛目に参って来て御理解を頂かんという人は、もうほんとに私は不思議で不思議でたまらん、てこう思うけれど、「頂いて行きなさいよ」と言うてから頂かしたんじゃいけんということ。
 と言うて、先生がやりなさるけん、努めて頂かな、というのでもいけないと。ですから、頂いただけでもいけんのですけれどもです、ね、そこんところを本当に、今日の芯、御理解のどこを、と言ったようなことが帰って、例えば話し合えれるだけのところまでは頂いとかなければいけないと思うですね。今日の御理解のいわばここだったと、ね、ですからもうほんとに、御理解がいつもかつも同じような御理解にばっか聞こえてくるようになるんです。絶対に違うんです椛目の場合は。
 もうほんとに、365日例えば説かせて頂くのは、365日違うです。その、伝えようとしている所が違うです。でそれをまあいうならば、磨き改まると言うことになってしまうかもしれませんけれどもです。ね。けれども、そこんところをですね、私はもう、例えば、松本さんではないですけれども、ほんとに帰ってずうっと、そしてやっぱりあの、そこんところを頂く為には、御理解をずうっと一遍思い出させて頂いて、その一つの文章に書くまでにはですね、「いつまでかかります」と言われる。
 けれどもそれは、必ず日記のように付けておられる。それがまあ、始めての頂き方と現在の頂き方という、たいへんな違いになっておりますとこう言う。
確かに私は、例えばの、久保山先生が亡くなられて、御理解集をあただにその、有り難がって、その皆さんが、見られるのと同じようにですね、私はもうその、昨日娘達が言うように、ほんなことはもう、例えば亡くなられてから、ね、亡くなられてから頂くのじゃもったいないと。やっぱり今頂いとかなウソだ、ということは思うんだけれども、そこになかなか頂けないところがあるわけなんです。そこんところをお互い工夫して行かなければいけないと思うんですね。
 どうぞ皆さんの場合なんかは、まあある意味で、まあ、ひとり部屋の人もあれば、多いと言う部屋の人もあろうけれども、まあとにかく、各部屋に、もう水道施設、電気施設はできたという感じなんです。ね。にもかかわらずその、水が出ていないのであり、やはり、水がここまでもらいに来なできん。
 明かりもやっぱここでは、明るくなれるけど、家では暗くなると言ったようなことはやはり、設備はできておるけれども、繋がるとこ繋がっていないということですから、ね、いよいよそこんところに焦点を置いて、一つおかげを頂いとかなければならんと思うんですね。どうぞ。